CompassPoint (コンパスポイント) ~若手社会人の情熱の魔法瓶~

What we do 活動内容

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2012年2月4日、今回は東北で被災地復興の活動をしているNPO法人ロシナンテスの大嶋一馬さんをお迎えして講演会+ワークショップの勉強会を行いました。ロシナンテスは第8回勉強会に理事長の川原尚行さんをお迎えしたこともあり、非常に長くお付き合いさせている団体です。今回も朝早くから40名くらいの参加者が集まって、とても盛況でした。

事務局のいいともによる「笑顔でハイタッチ!」の企画で全体の緊張がほぐれてきたところで、今回が大人数に対する講演会は初めてとなる大嶋さんによる講演が始まりました。


(講演前の大嶋さんと、今日はアシスタントの川原さん)


「縁」から「絆」へ ~東日本大震災におけるNPO法人ロシナンテスの活動と私~

現在45歳の自分が、約10ヶ月東北で活動してきたその記録をお伝えしたい。

NPO法人ロシナンテスという団体の説明

NPO法人ロシナンテスというのは、私が高校時代所属していたラグビー部の2つ上の先輩だった川原さんが始めた団体。もともとは川原さんが、外務省からの派遣で赴任したテロ支援国家に指定されたスーダンという国で現地人に医療活動をしたところ、医務官という立場ではそれができないと言われ、それだったら外務省を辞めて個人で医療活動しようと立ち上げた。とはいえ川原さんも一人だと何も出来ないので、福岡に帰ってきてラグビー部の後輩の協力を得て、スーダンでの活動をスタートさせることになった。それが、たまたま川原さんが東京にいたときに東日本大震災が発生し、とりもなおさず東北にいったため、今の東北での活動がスタートした。

スーダン滞在で学んだこと

訳あって5年前仕事を辞めたので、スーダンの川原さんの事務所に遊びに行った。イスラム教の世界では女性は男性の道具のように扱われていると感じ、最初はひどいと思ったが、一緒にしばらくいると女性たちが楽しそうに過ごしていると感じ「自分は自分の価値観で相手を評価している」ということに気付いた。あと、これまですごく汚れに対し神経質だったのだが、スーダンでしばらく生活することでそれが治ったのがとても印象深い思い出。



東北に行ったきっかけ

東北で活動しているのは名取市という宮城県の海近い場所。自分は震災時、福岡の小倉にいて、フリーライターの友人とコーヒーを飲んでいたが、友人の携帯に地震の速報が入り、「東北にいくから小倉駅まで送ってほしい」といわれ、車のラジオで東北に津波がきたことを知った。帰宅してテレビをつけると仙台空港に第1波が来ていた。自分はこれまでボランティアには興味も関心もない人間だったので、津波を見た瞬間も「これから東北は大変だな」と他人ごとのように思っていた。ところが、3月16日に、いまだに無職だった自分に川原さんから電話が来て「東北に来てくれ」と呼び出された。車などは同級生で事務局長の海原が用意してくれた。大量の燃料や食料、毛布などを満載にして2日間かけて宮城県名取市に入った。被災地に入ってすぐに震災の情景を目の当たりにしたが、自然の驚異に驚きを感じたほかは特に何かを感じることはなかった。

ラジオ体操で気付かされたこと

川原さんは巡回医療を避難所でやっていたが、避難所はかなり狭く、また、とても多くの人が亡くなったことから、震災直後は誰も笑うことができないような状態だった。このままでは折角助かった被災者の人が不健康になってしまうと思い、皆が体を動かす場を作ろうとラジオ体操をすることにした。すると初めて背中をそらした時に、皆からためいきと共に笑い声が漏れるのを聞いた。その声を聞いて自分は初めてすごく感じ入るものがあった。

初代瓦礫撤去隊長に突然の就任

川原さんは自ら避難所を回って診察していたが、自分は医者ではないので、送迎や身の回りの世話をするぐらいで基本的には暇だった。九州を出発するとき、「いつ帰ってくるの?」と妻に聞かれ「2週間くらいかな」と答えたのだが、それほど自分が必要な感じでもなかったので「そんなに長居はしないな」と思っていた。そんな頃、川原さんが「家が大変なことになっている」と被災地の人に相談され、「よし。オレが若い奴を集めて何とかするよ。一馬(大嶋さん)頼むぞ」といわれた。「自分は全然若くない」と思いつつ、3日間かけて作業道具を調達し、社会福祉協議会と打ち合わせをし、瓦礫撤去の初代隊長として活動するようになった。瓦礫撤去というのは最後には床下まで入って泥を撤去するところまでやって原則的に終了となる。90キロだった体重が78キロになった。

5月3日から瓦礫撤去を始めた山元町では、瓦礫撤去してくれた御礼といっておばあさんが休憩時間にハーモニカを吹いてくれた。70歳を超えたおばあさんだったが、新しい人が瓦礫撤去に参加するたびにハーモニカを吹いてくれた。演奏時間の分、瓦礫撤去の時間が減るのだが、毎回おばあさんがボランティアの人と触れ合うことで、励みになっているような気がして、それならいいなと思った。

瓦礫撤去をするときの依頼者の悩みは、「瓦礫撤去してもらってもし住まないということになれば申し訳ない」というものだった。自分は「瓦礫撤去してから住むかどうか決めればいい。瓦礫に埋もれたままの家だと住み続けるかどうか決められないのは当然だと思う」とお伝えして、撤去活動した。その依頼者の家は、大変きれいになったが、いまだに住むか決められないと聞いている。それほどひどい被害だったということだと思う。



ボランティアの受け入れと活動ルール

瓦礫撤去に参加してくれたボランティアとは皆寝食を共にした。今ロッシーハウスとして使わせてもらっている家は、圓満寺の住職が「2月から空き家で今後取り壊し予定の家があるから貸すよ」といってくださったおかげで住まわせてもらっている。その家があるからたくさんのボランティアを受け入れることが出来た。そんな経験から、想いだけあってもロジスティクスがそろわないと何も出来ないということに改めて気付いた。

ロッシーハウスのルールは2つだけ。「メシを一緒に食う」「年功序列」というもの。寝食を共にすると非常につながりが濃くなるので非常によかった。また、被災者の方々と話すときには「被災者と話して笑うことはOKだがスタッフだけ、で話して笑うのはやめよう」「写真をとるときにピースするのはやめよう」「撤去中に個人的な感想を言わない」ということを決めた。被災者の方の気持ちを思うとピースしたり、瓦礫撤去中に「くさい」「汚い」などを言うことはすべきではないと思ったため。

瓦礫撤去が終わると最後にボランティアと一緒に家の方にご挨拶するのだが、お返しをする被災者の方々が涙されることがあった。自分も一回だけ大泣きしてしまった。

お花見から桜の植樹へ

春になって、沈んだ被災者の気持ちを盛り上げるべく花見をすることにした。ロシナンテスが場所とお酒と食事を提供するので、被災者の方に参加してもらって皆で楽しもう、というのが普通のコンセプトだと思うが、我々はまずは自ら飲んで騒ぐということを実践した。不思議なものでそうすると周りの人もどんどん大きな声を上げて楽しむことができるようになっていった。

花見を通じて桜が人の心を動かすことが分かったので、子供たちと一緒に桜の木を植えようということになった。育つまで20年の時間が必要だが、そこまでちゃんと育てようと思い、日和山に一本植えた。植樹以来、何故か川原さんは断酒している。桜の花が咲くまで願掛けのために飲まないと決めたそうだ。



寺子屋事業から学んだこと

仮設住宅は狭く、子供たちが学習できる環境がないので、寺子屋事業をやることになった。、多くの子供たちに来てもらうため、子供たちと仲良くなることから始めた。田九段の子供に来てもらえないと、自己満足のためにやっていることになってしまう。開校式は盛大にやった。寺子屋を開いてみると、子供たちが震災で遅れた分、一生懸命勉強しようとしていることが分かった。

復興会議への参画

避難所には班長会議というのがあった。ただ話し合うのはもったいないので「ゆりあげ復興に向けた会議の場にしよう」と提案した。すると被災者の方から「復興への想いを忘れないために復興のシンボルとなるものを立てたい」と言われ、被災者と協力して、日和山に神社の神籬(ひもろぎ)と鳥居を立てた。次第に住民から「是非ロシナンテスも復興会議に参加して意見を言ってほしい」といわれるようになった。徐々に住民に溶け込んでいったように思う。

ゆりあげ・スーダン大運動会から学んだこと

震災で大きな被害を受けたゆりあげの子供たちも、南北スーダンに分裂したスーダンの子供たちも、お互いこれから子供が中心となって地域を盛り上げる存在という意味では同じステージにいるはず、と考えた。運動会には350名ぐらいの子供たちと住民が参加した。スーダンの子供は一列に並んだことすらなかったが、見よう見まねで言葉も通じないのに運動会を通じて日本の子供たちと意気投合していたのはびっくりした。演武披露では、スーダン・日本双方が歌の披露をしたのだが、ゆりあげのおばあちゃんがいきなり踊りだして、結局皆で自然な形で輪になって踊りだした。

運動会を通じて日本人は社会性を学んでいると感じた。日本文化の宝だと思った。最後にスーダン人を送り出すときにはあっという間に花道が出来上がった。それに感動するスーダン人も大勢いた。

芋煮会の狙い

被災地であるゆりあげ地区をどういう形で復興していくべきかについて、議論をしている。たとえば海沿いに防波堤となる高層マンションを建てようという意見もあり、住民としては色々と思うことがある。住民に調査したところ、住民の意向と市が打ち出す再建計画とは大きな相違があることが分かった。住民の意見を市の方針に反映させていくためには、名取市に対して皆でまとめて意見せねばと思うようになった。

同じころ、玄海島という約3年で復興した島があったので、復興の手法を学びにゆりあげの人と一緒に島に行った。彼らの復興手法は、大事な意思決定をする際には、700名程度いる全島民が集まって投票する、というものだった。じゃあそれをゆりあげでもやろうと思ったが、住民に呼びかけようと思っても個人情報を市は教えてくれなかった。2000人程度は仮設住宅に住んでいるのでアクセスはあるが、残りの4000人がどこに住んでいるか分からない状態だったので、これでは住民の大半にアクセスできないと思った。そこで芋煮会を実施し、参加した人に住所を教えてもらうことにした。テレビ・ラジオ・ビラ貼りなどをして集客した結果、約1000名に来てもらって名簿を作ることができた。

こうして色んなイベントをしていると、ボランティアひとりひとり、何か特技を持っていることが分かった。例えば自分は食品関係だったので、芋煮会では会のリーダーと食料調達などを担当した。芋煮会は津波から半年後に開催したのだが、この芋煮会で震災後、初めて知り合いに再会した人もいた。それだけでやった意味があったのではないかと思った。会の途中ではこどもたちがお遊戯したり、ゆりあげ小学校の校歌を現役・OB入り混じって一緒に歌うイベントをした。

それだけ盛況だった芋煮会だが、イベントが終わったら、被災者のメンバーはやる気を失ったように見えた。いわゆる「燃えつき症候群」だ。そこで川原さんから「それでいいのか」という問いかけを直接的な言葉ではないが何度かして、もう一度メンバーのやる気を醸成することができた。その結果、まずはゆりあげの復興新聞をつくろうという話になった。過去3回発行しているものを皆に配布したのでぜひ見てほしい。

自分が東北に居続ける理由

冒頭にも言ったが、自分はボランティア精神はないし、ボランティアをしているつもりはない。住民と一緒に活動しているだけ。では、自分はこの活動をなぜやっているかというと、「見てしまったから」としかいえない。川原さんがスーダンで活動していて同じようなことを聞かれたときに、「日本男児だから」と答えたと聞いたが、自分は「見てしまった以上、放っては帰れない。その気持ちが日本男児ということかな。」と最近ようやく理解できるようになった。自分としてはこれからも「他人はバカというかもしれないが、まっすぐに進むことができればいいな」と思っている。

ここで話は終わりだが、コンパスポイント事務局の小沼大地君に強くリクエストをされたこともあるので、最後に歌を歌いたい。ブームの「虹が出たなら」という歌。昔から好きだったが、なぜ好きか理解できなかった。自分の中には小さな正義感があって、それを今回少しは発揮できたと思うのだが、そういう潜在的な思いと重なっている歌かなと思う。歌詞に出てくる「虹」の部分を「希望」と置き換えて聞いてもらいたい。



「虹が出たなら」 THE BOOM

僕は何もあげられないから
一日中君の顔を きれいにみがいてあげる
ある朝君が死んで 一人ぼっちになっても
花のベッドで すりきれるまで
毎日みがいてあげる

年寄りが泣いている
子供たちがおびえてる
信じられるものが ひとつふたつ
僕らをとり残しても

虹が出たなら 君の家まで
七色のままでとどけよう



大嶋さんの講演は、とても力強くて真っ直ぐで、参加者全員の胸に突き刺さった印象でした。最後のギター弾き語りには、思わず目頭を熱くする人もいました。


第二部:ワークショップ
ワークショップは、ロシナンテスの方々とも相談して、以下の3つのテーマについてそれぞれ関心があるメンバーが集まって議論することになりました。

テーマ①: 東北の活動内容について初めて講演された大嶋さんに対して、講演内容をフィードバックし、3~4月に実施予定の大規模な講演会に向けて改善すべき点を提言

テーマ②: 従前は土日に東北にボランティアにくる人には瓦礫撤去活動に参画してもらっていたが、そろそろ瓦礫撤去が一段落するため、代わりに何をしてもらえばいいか、また、どうしたらボランティアがもっと増えるのか、についてのアイデア出し

テーマ③: 東京にいながらロシナンテスのために私たちができることは何か、震災を忘れないためにどうしていくべきか、についてのアイデア出し



以上で本日は終了・・・のはずでしたが、なんとロシナンテスのテーマソングともいえる「スマイル」を歌うシンガーソングライターのしおりさんがいらっしゃっていて、川原さんの発案で、会場にたまたま置いてあったピアノで弾き語りをして下さいました。



「スマイル」  しおり

その頬を涙でぬらさないで 君の心に光を

生まれた時から君はずっと 誰かに支えられて生きてきた
振り返って思い出してごらん 君は一人じゃないんだよ

雨が降らなくたって咲いてる花はあるから だから負けないで

君の笑顔が一番好きなんだ 君の笑顔がみんなを幸せにする
だから笑っていてこの青空の下で 君よ強くなれ

たとえこの先 君にどんな 辛いことがあったとしても
君の頬にまた涙が流れても ずっとそばにいるよ

太陽に向かって咲くあのひまわりのように さぁ前を向いて

君の笑顔が一番好きなんだ 君の笑顔がみんなを幸せにする
だから笑っていてこの青空の下で 君よ強くなれ

その頬を 涙でぬらさないで

君の笑顔が一番好きなんだ 君の笑顔がみんなを幸せにする
だから笑っていてこの青空の下で 君よ強くなれ

君の笑顔が一番輝く時 後ろを振り向かず歩きだせるだろう
だから笑っていてこの青空の下で 君よ強くなれ

だから笑っていてこの青空の下で 君よ強くなれ





大嶋さん、しおりさん、そしてロシナンテスの皆さん、
今回も本当にありがとうございました!