遅ればせながら、NPO法人ロシナンテスの川原尚行さんを迎えた第8回勉強会「情熱を持って挑戦し続ける、豪快な生き方 ~アフリカの地より『最高に熱いオッサン』来たる~」の模様をお伝えします。川原さんのお話、本当に熱かったです。感激して涙を流す人が続出でした。(一番下には動画もあります!必見!)
☆川原尚行(かわはらなおゆき)
1984年 福岡県立小倉高等学校卒業 (ラクビー部主将を務める)
1992年 九州大学医学部卒業 (ラクビー部主将を務める)
1998年 外務省入省 在タンザニア日本大使館二等書記官兼医務官着任
2001年 ロンドン大学にて熱帯医学を履修
2002年 在スーダン大使館一等書記官兼医務官着任
2005年 スーダン大使館を辞職、NPO法人ロシナンテスを設立
※ 奥さんと3人のお子さんは、スーダンから遠く離れた北九州で暮らす。
長男はこの春より小倉高校に入学し、ラグビー部で活躍中。
☆NPO法人ロシナンテス
・スーダン共和国において医療を中心とした活動を行うNPO法人 ・川原尚行医師が、大使館に勤めていた時、スーダンの現状を見て一医師として何かできないかと外務省を辞め、スーダンで取得した医師免許のもと医療活動を始めたのがきっかけに設立 ・NGOのメンバーやサポーターは、ほとんど高校のラグビー部関係者
・団体ホームページ http://www.rocinantes.org/aisatsu.htm (↑特に設立経緯の部分はアツいです!必見!)
実は今日、サンダルで来ました(笑)
寄生虫疾患(リーシュマニア)にかかって足が変形していて靴が履けないんです。 昨日も北海道に行きましたが、それもサンダルでした。今回の滞在で15回以上講演がありますが、 今回が一番気合入ってます。よろしくお願いします!
【川原さんとアフリカとのかかわり】
動機はミーハーなもんでした
私はラグビーずっとやってきまして、大学卒業後すぐに、高校のラグビー部でマネージャーをやっていた奥さんと結婚しました。自分はずっと海外に行きたい気持ちがあったし、奥さんもラグビーが好きだからニュージーランドに行きたいと言っていたんですが、お金がなくて、新婚旅行は「JRで行くハウステンボス二泊三日の旅」でした(爆笑)その後は外科医になり、忙しくて海外どころではなかったです。
ところが、外務省と提携している九州大学の海外派遣プログラムに応募したところ、応募者が私一人だったため見事に選出され、タンザニアへ医務官として1年間派遣されることに。応募の動機は、「海外に行ける!」というミーハーなもんでした。
初めての海外生活をタンザニアで過ごしているうちに、アフリカの人や大地が好きになって、正式に外務省に転籍することで当初一年の予定を、結局三年過ごすことになりました。転籍後は、ロンドン大学等で熱帯病(リーシュマニア等)を勉強して、その後スーダンへ医務官として派遣されることになりました。医務官時代は、在留邦人を主に医療面からサポートしました。
【外務省辞職】
安定的なポジションに全く魅力を感じなかった
「もうどうでもええ」「自分の好きなことをやろう」
スーダンは、国土が日本の6.5倍、人口3500万人の国です。みなさんはスーダンに対して、内戦が多いなど、マイナスのイメージを抱かれることだと思います。事実、断続的に50年もの期間内戦を繰り返してきており、私が赴任した2002年も、内戦中でした。今年の5月にも、普段は平和な首都ハルツールにダルフールの反政府軍が攻め上がってきました。また米国はスーダンを「テロ支援国家」と認定し、一時期はアルカイダが潜伏しているとして化成工場などへのピンポイント爆撃を行うなど、政治的にも非常に難しい地域です。
日本とスーダンの関係でいえば、日本のODAは1992年から止められており、私が現地で活動を開始した頃は、在留邦人はたったの20人くらいしかいなかったです。そんなわけで、医務官としての仕事はさほど忙しくはなく、医療系の国連やスーダンの大学などと共に医療活動にも従事していました。
それでは、「私はここスーダンで一体何をするか?」ということを考えたのですが、私は医者なので、目の前に病気で困っている人達に対し、なんかしてあげたくなりました。ところが、医務官として医療活動をすると、日本政府が援助を再開したととられるため、できない。私は医者である前に国家公務員であり、国家公務員である限り国の方針に従わなくてはいけない。このことは重々承知していました。しかし、目の前の病気の子供たちを前に何もせずに立ち去ることは非常に辛く、忸怩(じくじ)たる思いでした。外務省からは、何もせず黙っていれば、次はヨーロッパとかアジアのいい国に派遣される、とも言われていました。しかし、その時の自分はアフリカでの様々な経験から元来持っていた価値観がすっかり変わってしまっており、そういった安定的なポジションに全く魅力を感じなかった。そして、「もうどうでもええ」「自分の好きなことをやろう」と思い立ち、外務省をやめて、自分で活動していくことにしたんです。
【ロシナンテス結成】
支えてくれたのは高校のラグビー部時代の仲間
2005年に外務省辞めて、どうしようかと、、、全く計画なし(笑)とりあえず、医者だから医者でやるしかねえかなと思いつつ、帰国しました。
この時を支えてくれたのは、「川原が困っているなら助けてやろう!」と言ってくれた高校のラグビー部時代の仲間達でした。アフリカなどを放浪しまくっている高校の部活の後輩、霜田(霜田治喜氏、現スーダン駐在スタッフ)と20年ぶりにばったり再開して、「俺スーダン行くからついて来い」と言ったら、二つ返事で「はい!」と(笑)。私の奥さんもマネージャーだったので、後輩の霜田が一緒になってくれたことを喜びました。その時、「あ、私には高校のラグビー部がついているんだな!」と気づいたんです。
霜田とスーダンに旅立つ時前に、母校の時の校長先生に「応援団を貸してほしい。フレーフレー川原と言ってほしい」とお願いしたんです(笑)校長先生は「よかばい」ということで、応援団とラグビー部を貸してくれ、「フレーフレー川原!!」と言ってもらえたんです(爆笑)この時、ありがたいことに白い中古のワゴン車も頂いて、ワゴン車には応援部とラグビー部の主将に気合いを込めて「目指せ花園」と一筆書いてもらいました。ポンコツ車でも、こうすると魂が入るんです!
霜田と中古車の他に、もう一人、竹友(竹友勇二氏、現ユニセフ職員)という高校の部活の一つ下の奴がいます。私がタンザニアの医務室で診療活動をしている時、彼が偶然「頭が痛い」と患者として来たのが運命の再会。お互いかなりびっくりしたが、そのまま酒飲みに行きました(笑)「ところでお前、なんかあったんか?」「あ、そういえば頭痛かったっす」(爆笑)彼はユニセフで働いていて、タンザニアの奥さんもいて、子供もいたので、家族ぐるみで付き合いました。その後、国連職員としてイラク等を転々としていたが、ある時「タケトモ、スーダン来いよ!」と誘ったら、「はい!」ということで見事国連のスーダン事務所に来た。ちょうど私が外務省を辞める辞める3日前だった。こうして、高校時代の3年(川原さん)、2年(タケトモさん)、1年(霜田さん)という奇妙な三人でスーダンでの活動が始まったんです。。。
【ロシナンテスの活動】
重要なのは、活動前に村の酋長に仁義を切ること
で、何をやったかと言うと、私たちが活動できるような組織は全くなかったので、単身病院で外科のチームの一員として活動を開始しました。しかし、どうしても無医村に行きたいという思いから、次の年から伝染病の感染者が多い村での巡回診療を開始しました。村で医療活動を行う際に重要なのは、活動を行う前に村の偉い酋長さんに仁義を切ることです。一緒に寝泊まりしながら、私という人間をわかってもらい、信頼関係を築いた後に、初めて診療活動をする。医療というのは、患者と医者の信頼関係。それは日本でもスーダンでも一緒。酋長さんが信頼してくれると、村人も信頼してくれるし、次の村も紹介してもらえ、身の安全まで守ってくれるんです。
各地の村を巡回診療していくうちに、色々考えることがあり、一つの村に入り込んで腰を据えて診療活動するために、ある村に入り込みました。相変わらず私は真っ先に酋長さんのところに行きます。その村の酋長さんは、ハサンという人で、今では私と盟友関係にある人なのですが、彼の信頼を勝ち取り、その村での診療活動を開始しました。
当初は自分一人でやっていたけど、自分が帰った後のことを考えて、現在はスーダン人のヘルスアシスタントを10人くらい雇っています。彼らのベーシックサラリーは保険省が払ってくれ、我々はインセンティブを払う。全部のサラリーを我々が払うのではなく、現地の行政も巻き込んでやっていっているのがポイントです。
酋長ハサンと川原さん(photo by 小沼大地)
どんなに回り道してもいい そうしてるうちに足腰が強くなる
村で医療活動をする上で意識しているのは、村人たちと密にコミュニケーションを取ること。自分が未来永劫その場所にいることができないので、彼らと良いものを出し合って良い診療体制をつくっていく、診療所の運営に工夫をこらす、そういう地道なコミュニケーションを心がけています。しかしこれは、本当に大変で、衝突の連続。ものごとは、何事もすんなりうまくはいかない、すごく大変。これに対し、お金をかけてショートカットする方法もある。しかし私は、金をかけてショートカットしていくよりは彼らと喧々諤々やりながらずーと遠まわりしながらやっていった方が、結局は足腰鍛わってその先の発展ができるんだと、信じています。 たとえ何をやってるか分からなくても、どんなに回り道をしてもいい。そうしてるうちに足腰が強くなって物事を成し遂げることができるんです。 「ドクター川原ありがとう」ではなく「神様ありがとう」
ある時、日本で廃車になる寸前の中古の救急車を輸入することになったことがあります。実はスーダンの病院で活動していた頃に2代ほど導入したことがあり、今回も同じスキームで楽勝!と思っていたのですが、そうはいかないのがスーダン...。今回は法律変わってしまって、右ハンドル車はダメ、登録後3年以上経過した車はダメということで、スーダン政府から受取を拒否されてしまったんです。
そこで先ほどのハサンに相談したところ、ハサンは酋長of酋長とでもいうべき(笑)オスマンさんに相談してくれたんです。オスマンさんは超人情派、浪花節で生きている人で、「けしからん!」とその場でむっと立ち上がり、そのまま州知事のとこに怒鳴り込んでいき、「まごころはちゃんと受け取らなあかん!!」と(大爆笑)その後、紆余曲折いろいろあったが、最後は法律を曲げて受け取ることができちゃいました(笑)これがスーダンの面白いところ。
そしていよいよ救急車が到着した際のことです。村人は皆「ドクター川原ありがとう!」ではなく「神様、ありがとう」というお祈りを捧げたんです。ドクター川原と救急車を派遣してくれた神様に感謝しているというのです。彼らが感謝する対象はやっぱり神様なんですね、私はこういうのがすごく好きです。
診療中の川原さん(photo by 小沼大地)
【スーダンでの生活】
何もないけど、何かがあるスーダン
何でもあるけど、何かがない日本
自分が住む家は、村人と同じがいいなと思い、実際に「グッティーア」というスーダン農村部の伝統的な家に住んでいます。日干しレンガで土台を作り、その上に木で枠組み、茅葺みたいものを載せて完成する、「三匹の子豚」に出てくるような簡単なつくりの家です。食事は、ひえとかわらを粉にして水にとかしたアシーダなどを、外でみんなと同じ皿で食べます。みんなで食べると、すごい美味しいんです。 お月さまも奇麗です。お月さまがなくなれば、万点の星空、天の川、南十字星も見えます、本当に奇麗なんです。不便で何もないところだけど、「スーダンには何もないけど、何かある」と感じます。逆に日本に帰ってくると、「日本には何でもあるけど、何かがない」、そんなことを思ってしまいます。
川原さんの診療所があるシェリフ・ハサバッラー村(photo by 小沼大地)
【今後のロシナンテス】
きっちり自分の足で立つ、そういった支援をする 今度の活動は、まず足元では水質改善。患者さんを診ていると、下痢やコレラが流行っています。原因は水なんです。
それと、学校教育。現在の村の教師は、街の人を村で雇っています。村の人が教師になるのはなかなか難しいです。でもそれじゃだめだと、日本のODAで村に学校をつくったんです。
それから、スーダンサッカー協会のお偉いさんが日本に来た際、偶然に偶然が重なって日本サッカー協会の川渕氏に紹介することができて、そこで意気投合したことでサッカーボールを100個寄付してもらいました。これを機にロシナンテスではスポーツ事業部を立ち上げることになって、担当者は現在スーダンのナショナルチームのU20のコーチに就任しました(笑)スーダンとは本当におもしろいところです。
また、紛争の続くダルフールには今年2回視察に行きました。ダルフールに関しては、国連、欧米諸国、スーダン政府、難民、それぞれで見方が違うんです。なので、どうしても自分の目で確かめたいと、国連のヘリ乗って行ってきました。
ダルフールでは、国連やNPOの活動により、住居も水も食糧もなにもかもよく行き渡っていました。しかし、難民の人たちはもらうばかりでは、人間が進歩しない。きっちり自分の足で立つ、そういった支援をすることが必要だと強く思いました。
そんな時、これだ!!とひらめいたのが、サッカーを切り口に何かできないかということでした。その後、自分の足で立ってほしいという想いで、ロシナンテスからは彼らにサッカーボールをプレゼントしました。
【コンパスポイントのみんなに伝えたいこと】
人は死んでいくもの でも、魂を仲間につないでいけばいい
昨年から悲しいことが続きました。スーダンでの診療活動において私の右腕だったムスタファ君が、二月に交通事故で亡くなりました。スーダンにも来てくれた友人の廣瀬医師も、事故で亡くなってしまいました。彼は開業したばかりで、ガンの治療を末端レベルでやろうと、大変高い志に燃えていました。それに、竹友君の奥さんも、交通事故で亡くなってしまった... こうした別れを経験し、考えました。「人というのは死んでいくもの。家族をつくり、子どもをつくり、そして死んでいく。だからこそ、もらい受けた生を一生懸命大事に生きていかなかんな」、と。亡くなった人も、それぞれ志を持ってやっていた。私の中にムスタファ君や廣瀬君や竹友君の奥さんがいる、そして彼らの魂というのはつないでいかなかんなと。いずれ私は死んでいくが、でも、若いみんなに今日こうやって接して、私の魂の一部を分け与えようと思う。そして君たちは、それを持って生きていき、次の世代につないでいく。そういったことが大事なんじゃないかと思っています。
ベースは家族。家族がいるから、がんばれる
私は、家族がいるからがんばれるのです。私の妻は、私の最大の理解者であり、一家の稼ぎ頭です。外交官夫人として悠々自適の生活をしていたにも関わらず、「俺、やめるけんね」と切り出した時は、「あんた言い出したらきかんもんね。」と自分のことを認めてくれました。彼女あっての私です。また、長男は私と同じ小倉高校のラグビ部に入りました。すごく嬉しい。明日も試合です。長女は、私に一番メールをくれます。この間も、「お父さんと映画を見に行きたい」ということで、デートしてきました。次女の書いた私の似顔絵は、近所のスーパーで金賞を取りました。この一枚があれば、私は一生がんばれます。私のベースは家族です。家族がいるからがんばれるのです。
【ロシナンテスの想い】
とにかく前を向いて進んで、
それが足跡になればいい
最後に、ロシナンテスの名前の由来をご説明します。最初、私がいて、霜田がいて、あのポンコツ車がいて。なんとなく、自分のことをドンキホーテ、霜田がサンチョパンセ、あのぼろ車がロシナンテ、という思いでした。ロシナンテは、ドンキホーテが乗る痩せロバ。ドンキホーテは風車に立ち向かっていようなアホですが、なんとなく自分自身もそんな感じがしていて...。ロシナンテ自体はやせ馬でちっぽけで、私自身も非力ではあります。でも、皆さん方と一緒になって何か新しい想いを持ってやっていけば、きっとなにか新しいものをつくっていけると、そう思っています。
もっと言うと、アルゼンチンのお医者さんだったチェゲバラです。カストロと一緒にキューバ革命成功後、地位を捨てて、「もう一度、ロシナンテの背中に乗りたい」とアフリカに行きました。私はこの言葉がすごく好きで、これにも影響されています。
私たちのやっていることは、小さな小さなことですが、それでもとにかく前を向いて、一歩ずつ進んでいって、それが足跡になってくれればいいかなと。そんな想いで生きています。
【質疑応答】
Q:川原さんは自分のやりたいことを現地でもできるよう活動をされていて、それに感動しました。一方、今後色々なことを実現していくうえで、政治の役割が大きいと思います。今後の医療の主体と担っていく政府に対して、何か提言したり、働きかけをしていますか?
A:あまりに政治的になり過ぎても後々よくないなと思うので、なかなかNGOレベルが政府に提言することは少ないですが、地方レベルの行政を巻き込んだりはしています。外務省時代のつてもあるので、スーダン政府の上の方の人と話すようにもしています。
Q:色々なプロジェクトをいろんな分野でやられていますが、最近面白いなと思うものは何ですか?
A:診療所自体は地味な活動だが、地元の人に接して、衝突しながらも解決していくことが面白いです。それからスポーツ事業は若者受けがよく、スポーツを通じて色々やれそうなので、これが結構面白い。それともう一つ、アリ先生(名桜大学教授、在日15年)と一緒に、スーダンで携帯を用いた若者のオンラインコミュニティみたいな仕組みを作ろうとしています。誰か今日協力してくれる奴がいないかなと、後でスカウティングします(笑)
Q:私は物心ついた時から、河川のために生きていきたいと考えています。「何かやらなきゃいけない、世の中のために何かしたい」と思っている人が、世の中にはすごく少ないのではないか、と最近強く思います。なぜ、川原さんは世の中のためになることをしたいと思える人間になれたのでしょうか?いつ、そう思えるようになったのでしょうか?
A:アフリカに行った時、冷静に日本を見えるようになりました。あぁ、自分の国が大好きだと。私は日本大好き。けれど、何か日本て足りないなとすごく感じています。帰国するたびに、嫌なニュースを聞き、何か嫌な思いをします。また、私は本を読むのが好きで、幕末の本を読むことが多いです。ある時京都に行ったことがあって、そこに無名の長州の志士の墓があって、その時、涙を流してしまった。彼らはほんとに日本のことを思い、亡くなっていった。それがたかだか100年前。そういう若者がいたからこそ、日本は黒船が来て以来、植民地化されることもなく今日までやってこれた。なのになぜ、今のこのていたらくは!?という気持ちが強いです。それならば、私がやっている小さいことが、日本を少しは機動修正してくれたらいいなと、そう思っている。アフリカのいいところを日本に取り入れてちょっと機動修正してくれれば、日本はいい国になるのではないかと、思っています。
Q:今日の話を聞いていて、川原さんが家族をすごく大切にしているなと思いました。で、僕自身、小さいころから、自分なりの夢とか情熱があり、日本をこうしたいという想いがあります。結婚して、家族ができてから、自分が今まで考えていた夢や情熱を追い求める際、家族と夢との間の葛藤があれば教えてほしいです。
A:最初に見た映像の中でも、新幹線の中で私はわんわん泣いていました。別れのときは、いつも辛い。けれども、やらなきゃいけない、やるしかない、今しかない、と思っています。でも、離れていてもいつも私の心の中には家族があり、家族の心の中にも私がいる。そういうつながりはいつもある。確かに両立は難しい。別れて行く時は今でも辛い。ただ、子どものことも考えて、あと5年くらいで形をつくって、日本に半分くらいはいれるようにと思っています。家族のことは常に頭にあり、考えています。
Q:①ロシナンテスの今後のスーダンでの最大のチャレンジは何ですか?②お金以外で、日本からあって嬉しいサポートは何ですか?
A:①よくゴールについて聞かれますが、小さなゴールはいっぱいあります。でも、大きなゴールの一つは、ダルフールの問題。そこにチャレンジし、今、サッカーとかITを使って何かできないかなと考えています。あとは、アフリカ全体として、このままでいいのかとも思っています。今の枠組みの中では絶対うまくいかないと思うので、何らかの変革が必要です。ただ、これは私一代ではどうしようもないが、きっとあとに続いてくれる人がいるはずです。
②日本でできる支援は、資金も大変ありがたいですが、若い人のアイディアとか、例えばアリさんのアイディアに協力するとか、そういったことが嬉しいです。あとは、注目してくれることでしょうか。我々から発信する情報を受けて、自分の頭で考えてくれることを期待します。
Q:今日はハートの熱くなる話をありがとうございます。今日の話の中で、「足腰が鍛えられるには、衝突して時間かけて、遠まわりすることが必要」という指摘が面白かったのですが、そこで一つ、無償で医療を提供するのでなく、なぜ医療活動の中にお金を織り込むのか、そこの考え方をもう一度教えてください。
A:例えば大災害時は、無料が基本だろうと思います。ただ私が今やっていることには、その先がある。私がやっていることが無償だったら、私が立ち去った後、後が続かなくなってしまいます。ただそこでお金をもらえば、彼ら自身の手で診療所が回り、次世代も持続できる。それに、無料だとモラルハザードが起こって、何百人とわっときてしまう。未来に持続可能となるようなカタチを考えて、有料診療としているのです。
Q遠周りすることで足腰が鍛えられるということに、なるほどと思いました。でも、遠周りすることで、めんどくさいことや壁にぶち当たることが多いとも思います。自分のモチベーションを保つ秘訣は何かありますか?
A:う~ん、何ですかね?まあ、私はどちらかというと楽天家なので、あまり深く考えないです。結果的に、遠周りだったという感じもあるので...(笑)ただ、目標というものがあるので、一歩ずつ、明るく目標に向かって進んでいくことが大事だと、アフリカから学びました。お金があればポンっと、てのはやりたくないなと。
Q:HPに、「アフリカのために、日本の将来のために」と書いてあったが、日本の将来のためのビジョンについてどうお考えですか?
A:なかなか言うのは難しいですが、日本にいると「何かおかしいな?」「ぎすぎすしているかな」と感じます。医療ということで言えば、訴訟が増え、医者と患者の間がぎすぎすしています。患者は構え、医者は逃げる。なんかそういう悪循環、悪い方へ悪い方へいっている気がします。医者と患者の関係は、やっぱり信頼関係を結ぶことが大切です。でも、学校などでは子供と先生、親と子供とか、そういった関係者が、自分の権利だけを主張しているような日本になってきているんじゃないかと。パブリックを見渡す意識が薄れていっているんじゃないかと思います。人と人の関係、人と自然の関係、っていうのを見直すべきじゃないでしょうか。逆にこういったことは、アフリカの方がちゃんとできていると思うので、今こそアフリカから何かを学んで、昔日本にいっぱいあったそういうモノを日本に取り戻せられたらいいなと思います。
(photo by 小沼大地)
そして講演の最後には、スーダンの素晴らしい写真のスライドショーと
さだまさしさんの名曲「風に立つライオン」が流れる映像作品を鑑賞しました。
本当に本当に、素晴らしかったです...
第2部 ランチ懇親会&ワークショップ